the simple

ワクワクすること、働き方や仕事について、僕が学生の時に知りたかったことを発信するブログです。

〇〇を好きな自分というのが危険な理由

「好きなことを仕事にしよう」。素敵な言葉だし、多くの人が理想とする状態だ。この言葉の広がり具合は、この世の中でいかに多くの人が好きなことを仕事にできていないか、ということと比例するとも思っている。そこで一つ考えなければいけないことは、好きなこととは何なのか。


先日、会社の会議で部内における新たな取り組みとして、残業を絶対に禁止する曜日を設けたい、という青二才な意見を提出した。それに対して、じゃあ定時後は何をやればいいの、と聞かれた。好きなことをすればいいじゃないか、と思ったのだけど、どうやら世の中は好きなことがわからない人も多いらしい。


◯◯が好き!といった場合、①純粋にそれが好きな人と、②それが好きな自分のことが好きな人、という二つのタイプの人がいると思う。この基準は、誰かに見られていなかったり話さなかったりしてもそれをやるか、だと思う。前者の場合、誰かに何かを言われなくてもそれが辞められないパターンだ。これは非常に健全な「好き」だと思う。とても幼児的で(良い意味で)、没頭できることだと思う。後者は〇〇が好きという自分のイメージが、他者に受け入れられることが好きなのだと思う。これが厄介だ。


後者の好きは、とても社会的である意味、人間的だとも思う。人からのイメージが良くなるからそれが好きになるわけで、人からのいいねがあるからそれが続けられる。じゃあ、それが悪くなったり、なくなったらどうなるのか。サッカーというスポーツがかっこいいから始めた人と、純粋に競技として楽しいからやっている人。後者の方が伸びるし、応援したくなるのではないか。僕はきっかけは他者志向でも良いと思うが、最終的には後者のような自分志向にならなくてはいけないと思う。


人からの評価などなく、それに没頭できる好きは最強だと思う。それは、「友人の評価はイマイチでもshe so cute状態」だと僕は思っている。そう思えていたら、きっと相手のことも純粋に100%愛せるし、きっと長続きするだろう。だから、社会的な側面のある「好き」は、それがブレる可能性があるため、危険なのだ。


今の時代、SNSやインターネットで社会的な評価は簡単に得られる。だからこそ、そのステータスを求めての行動は、ぐらついて危ないのだ。たとえば、10年前に銀行に入行した人がいるとしよう。その人は銀行業に魅力を感じた訳ではなく、ステータスや社会的な安心度が好きで入行した。今となってはどうだろうか。相当自分の決断にぐらついているのではないか。


純粋な自分志向な「好き」を見つけるために何が必要か。それは、単純かもしれないが、発信しないことが大切だと思う。発信しないということは、誰にもそのことを明かさないことだ。誰にも明かさないということは、自分の中で本当に好きでやめられない状態だと思う。それを持っている人は強いし、それこそが「好きなこと」だと思う。


もちろん、人からの評価が自分の好きを加速させることもある。しかし、それは将来的に「人からの評価をもらうためにその活動をする」という変化になるかもしれない。好きとはさっきも書いたようにもっと自己完結的な活動であるべきだと思う。(人の笑顔を見たい、とかの対人的な好きは除くけどね)


「好きなことを仕事しよう」。その好きなことって本当に好きなのか。現状の嫌なことからの逃避だけになっていないか。諸々考えながらも、自分の好きなことを見つけ続けることはとても楽しい。